筑前須恵眼目療治関連資料(1)

更新日:2021年10月29日

ハマグリの二枚貝が3ケ並べられ、右と真ん中の貝に赤い紐のような物が入っている殻目薬3個の正明膏のレプリカの写真
木箱の蓋が開けられ、中に往診道具が入っている往診箱の写真

 須恵町には、江戸時代から現在に至るまで、岡(高場)眼科と田原眼科という2つの眼科の家系があります。江戸時代には福岡藩の藩医に登用され、名声を得ていました。
 当時の診察の状況を記録した『眼目療治帳』によると、治療(目養生)に訪れた人は年間千人を超え、西日本はもとより遠くは松前(北海道)から治療に来た人が確認されています。大分県日田の学者広瀬淡窓も文化6(1809)年、眼病の治療のために須恵に滞在し、その時の様子を『懐旧楼筆記』に記しています。
 この頃の、上須恵村、須恵村の人々は、家の前に薬師堂を配した田原家、岡家を核に農業を営むかたわら、全国各地から治療のために訪れる人々のために宿を経営し、宿場町(「眼療宿場」)の様相を呈して栄えていました。宿では「肥後屋」、「河内屋」などの屋号を持っており、それぞれの地域の人が宿泊する宿が決まっていたといわれています。その中には、田原家、岡家の許可を得て目薬の製造を行う者もいて、明治時代には精奇水や真珠水、大学目薬に似た博士目薬などガラス瓶入りの点眼水も製造されていました。
 指定を受けている資料の内容は、染付青海波文製薬鉢や目薬瓶などの製薬道具、往診箱や駕籠などの往診道具、背負箱や目薬広告版木などの行商関係資料並びに眼目療治帳や眼鏡注文帳などの記録類に分類することができます。これらの資料は、他には見られない眼目療治を中心とした須恵町の当時の繁栄の様相を示しています。
平成17年10月5日に県有形民俗文化財に指定されました。

上須恵眼病人宿跡の文化財説明看板です
田原養全宅跡の文化財説明看板です

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